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この辺り一帯は浪速八十島と云われ、多くの島々があった所で長い年代をかけて開拓され現在に至っています。
当社は天正年間に、七右衛門、弥右衛門、重右衛門、長右衛門という4人の者が来て漁業をなし、余暇には土地の開墾に従事していました。慶長年間には戸数も増加し20戸を数え、米、麦、野菜などは自給できるようになっていました。しかし、主たる職業は漁業である為元和年間に海上の守護神と尊ぶ住吉大神、神功皇后の御分霊を摂津の國住吉大社の神官橋本亀太夫に請い、今の千鳥橋の下方なる中津川沿岸(元の四貫島元宮町)に祀ったのが当社の起源です。
宝暦5年(1755年)に現在の梅香1丁目に移転、更に大正10年大阪市電敷設にあたり現在地に移転奉斎されました。
然る昭和20年3月13日及び同年6月1日の戦禍により本殿、幣殿、拝殿神楽殿、神庫2棟、手水舎、社務所を始めとして末社稲荷社その他御渡御用具など焦土と化しました。
しかし、氏子崇敬者の奉賛により昭和38年に社殿が復興し今日に至っています。
平成4年に稲荷社を復興し令和4年に復興30年記念事業として参道沿いに桜(品種:舞姫)を植樹しました。